花魁 読めるけど意味も由来もわからない不思議な言葉

吉原は花街として長い歴史を誇る地域です。
遊郭という仕組みが消滅した現代でも、吉原は男たちの欲望を受け止める特別な場所として甘美な響きを放ち続けています。

「花魁」は謎に包まれた言葉

江戸時代、その吉原の遊女の中でも最高位にランクされていたのが「花魁」です。
花魁と書いて「おいらん」。
読み方は多くの人が知っているけど、その意味や由来は不明という不思議な言葉です。
遊女の最高位を「おいらん」と呼ぶことはわかっていても、何に由来するのか? そもそも「おいらん」という言葉にどんな意味があるのか? 確かなことは何一つわかっていないのが実情です。

ただ18世紀中頃、宝暦の頃(1851~1764)に、それまで遊女の最高位であった「太夫(たゆう)」が廃止され、かわりに「散茶(さんちゃ)」と呼ばれた遊女の中から、遊郭の中でも地位の高い「呼び出し」(人気と稼ぎが高く、他の遊女とは別格の扱い)が「おいらん」と呼ばれるように変化した、という辺りは定説となっています。

「呼び出し」は禿と新造を従えて茶屋で客を迎える高級遊女。吉原で太夫が廃止された後、その地位にとって代わる高級遊女です。
実質的には「太夫」→「呼び出し」→「花魁」と呼び名が変化しただけと理解してもいいでしょう。
ちなみに禿(かむろ)も新造(しんぞう)も、太夫や花魁のお世話係です。禿は幼い女の子。新造は自ら遊女として客をとることもある女性たちです。

ということで、吉原遊女の最高位を「おいらん」と呼ぶようになったのは江戸中期の宝暦の頃と見ていいでしょう。

「花魁」の漢字は明代の説話集から

では、「花魁」という漢字はどこから来たのかと言うと、中国の明の時代の説話集「醒世恒言」に美しい遊女を「花魁」として表現している個所があるところから、江戸時代の中期(明和~天明の頃、18世紀後半)に用いられるようになったという説があります。

文字から推測するに、花の魁(さきがけ)、つまりいち早く咲く花ということで梅を指し、見目麗しく人気の高い遊女を梅の花、花の魁として例えたものであろう思われます。

江戸前期の吉原の花形は「太夫」

江戸の初めから半ば頃(17世紀はじめから18世紀半ば)までの吉原のスターは「太夫(たゆう)」と呼ばれる遊女たちでした。
太夫という名は、女歌舞伎が盛んだった江戸時代初期に芸達者の女性たちが「太夫」と呼ばれたことに由来します。
江戸時代になると、美貌と教養を兼ね備えた最高位の遊女に与えられるようになりました。

高級遊女である太夫に相手にしてもらえるのは大金持ちで、しかも粋な男性のみ。
大名や豪商に見受けされた太夫の逸話も数知れません。
江戸の庶民にとってはまさに高嶺の花でした。

しかし、太夫のために高額な財産を注ぎ込んで身を持ち崩す旗本や商人が後を絶たなかったため、吉原では宝暦の頃に太夫の地位が消滅。
かわりに遊女の最高位の呼び名として定着したのが「おいらん」でした。